説明

細胞の形状または硬度の温度依存性を決定することによる、細胞の耐熱性評価法

【課題】細胞の耐熱性を簡便かつ迅速に評価する方法の提供。
【解決手段】細胞の形状または硬度の温度依存性を決定することによって、細胞の耐熱性を評価する方法であって、細菌、真菌および酵母からなる群から選択される微生物である細胞を、加熱手段を備えた走査型プローブ顕微鏡(SPM)を用いて加熱・測定し、所望のD値を示す前記細胞の加熱温度を算出して細胞の形状または硬度の温度依存性を決定する、細胞の耐熱性評価法。

【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、細胞の耐熱性評価法に関し、具体的には、細胞の形状または硬度の温度依存性を決定することによる、細胞の耐熱性評価法に関する。
【背景技術】
【0002】
従来、細胞の耐熱性評価は、一般的な加熱殺菌理論に基づいて、試料を一定時間加熱し、加熱後の生残菌数を測定することにより行われていた。これにより、特に飲食料品中の細菌等の適切な加熱条件を検討することができるため、細菌の加熱殺菌理論は、産業上極めて重要であると認識されている。しかしながら、従来型の細胞の耐熱性評価法は、バイオマスとして培養した細胞を用いた耐熱性評価であるため、多種多様な細菌の混合物を用いることは困難である。そのため、従来型の細胞の耐熱性評価法では単離やその後の培養に手間を要し、生残菌数の測定も煩雑であり、細胞の耐熱性評価は大変な時間と手間を要するものであった。
【0003】
近年、細胞の硬度を測定することにより、細胞の耐熱性を評価する方法が開発された(特許文献1)。この方法は、細胞の硬度と細胞の耐熱性とが比例することを利用した細胞の耐熱性評価法である。すなわち、各種細胞を用いて細胞の硬度と耐熱性に関して予め作成した検量線に、耐熱性未知の細胞の特定温度での硬度を当てはめることで、特定温度における当該細胞の耐熱性を評価することができる。この方法によれば、検量線さえ作成しておけば、その後は、細胞の特定温度における耐熱性を簡便かつ迅速に評価することができる。しかしながら、この方法では、評価対象が、細胞の硬度と細胞の耐熱性との比例関係が認められる芽胞形成細菌の芽胞に限られていた。例えば、好熱性偏性嫌気性芽胞形成細菌の芽胞やカビの子嚢胞子などでは、細胞の硬度と耐熱性の間に相関性が認められず、このような微生物種には適用できないという問題があった。そのため、幅広い微生物種に適用できる簡便かつ迅速な細胞の耐熱性評価法の開発が望まれていた。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0004】
【特許文献1】特開2009−183207号公報
【非特許文献】
【0005】
【非特許文献1】佐藤順、「加熱殺菌理論の基礎知識」、現場必携・微生物殺菌実用データ集第1版、株式会社サイエンスフォーラム、2005年8月11日、31〜42頁
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0006】
本発明は、細胞の耐熱性を簡便かつ迅速に評価する方法を提供することを目的とする。
【課題を解決するための手段】
【0007】
本発明者らは、細胞の形状または硬度の温度依存性を決定することによって、細胞の耐熱性を簡便かつ迅速に評価できることを見いだした。本発明は、このような知見に基づくものである。
【0008】
すなわち、本発明によれば、以下の発明が提供される。
(1)細胞の形状または硬度の温度依存性を決定する工程を含んでなる、細胞の耐熱性評価法。
(2)加熱手段を備えた走査型プローブ顕微鏡(SPM)を用いて、細胞の形状または硬度の温度依存性を決定する、(1)に記載の方法。
(3)細胞が、細菌、真菌および酵母からなる群から選択される微生物である、(1)または(2)に記載の方法。
(4)所望のD値を示す前記細胞の加熱温度を算出する工程を更に含んでなる、(1)〜(3)のいずれかに記載の方法。
(5)所望の加熱温度における前記細胞のD値を算出する工程を更に含んでなる、(1)〜(3)のいずれかに記載の方法。
(6)細胞が存在する環境下における前記細胞の耐熱性を評価する、(1)〜(5)のいずれかに記載の方法。
【0009】
本発明では、測定対象となる細胞の形状または硬度の温度依存性を決定することによって、簡便かつ迅速に細胞の耐熱性を評価することができる。細胞の単離が不要なため、細胞の混合物をそのまま測定に供することもできる。そのため、細胞の存在環境下における耐熱性を評価することができる。また、本発明によれば、任意の加熱温度におけるD値、または任意のD値を示す加熱温度を簡便かつ迅速に評価することができる。従って、本発明によれば、例えば、細菌類の存在環境下における耐熱性を評価し、飲食品の加熱処理時間を現状に即して決定することができる。
【図面の簡単な説明】
【0010】
【図1】図1は、供試微生物株から調製した測定試料の細胞の加熱温度とその際の細胞の厚みの増加量との関係を示す図である。図は、横軸を細胞の加熱温度(℃)とし、縦軸を25℃からの細胞の厚みの増加量(nm)とした。図1Aは芽胞形成細菌の芽胞(B. licheniformisおよびB. coagulans)における結果を示し、図1Bは好熱性偏性嫌気性芽胞形成細菌の芽胞(T. mathraniiおよびM. thermoacetica)における結果を示し、図1Cは通常の細胞(栄養細胞)(E. coliS. aureus subsp. aureusおよびS. pastrianus)における結果を示し、図1Dはカビの子嚢胞子(B. fulvaおよびT. flavus)における結果を示す。グラフ中の縦の線が、細胞固有の温度TまたはTを求めるための直線である。
【図2】図2は、微生物の代表的な加熱致死時間曲線(TDT曲線)を示す図である。データは、縦軸を加熱温度(℃)とし、対数目盛を有する横軸をD値(分)とする片対数グラフ上に示した。●は、B. licheniformis株おける加熱温度とD値との関係を示し、▲は、B. coagulans株における加熱温度とD値との関係を示す。それぞれの株に対するTDT曲線をグラフ内の直線で示す。TDT曲線の回帰式log10D=c+d×T(cおよびdは定数)を求めることで、D値が0.005分となるときの加熱温度やD値が0.01分となるときの加熱温度を推定することが可能である(グラフ内点線)。
【図3】図3は、細胞の厚みの熱分析の際のカンチレバーの昇温速度を変化させることで、Tの温度が変化することを示す図である。毎秒10℃または毎秒20℃の昇温速度でB. licheniformisおよびB. coagulansにおける細胞の厚みと加熱温度との関係をそれぞれグラフに図示すると、昇温速度依存的にTの温度が変化することが分かる。
【発明の具体的説明】
【0011】
本発明において評価対象となる細胞は、細菌などの原核生物、真菌などの真核生物、および古細菌の細胞が挙げられる。単細胞生物であればいずれの細胞でも測定対象とすることができる。また、動物や植物などの多細胞生物の細胞であっても、測定に用いることができる。単細胞生物の場合は、細胞壁の有無に関わらず測定することができる。細胞壁がある場合であっても、細胞壁の種類に関わらず測定することができ、しかも、測定に際して、細胞壁等の除去の必要はない。従って、厚い細胞壁を有するグラム陰性菌、真菌、植物、古細菌の細胞であっても、簡単な手順で、細胞の硬度または形状を測定することができる。なお、本明細書において「細胞」は、単細胞生物自体を意味するものとして用いられることがある。
【0012】
本発明の測定対象となる細菌としては、細菌であれば特に限定されないが、例えば、ナイセリア属(Neisseria)、ブランハメラ属(Branhamella)、ヘモフィルス属(Haemophilus)、ボルデテラ属(Bordetella)、エシェリキア属(Escherichia)、シトロバクター属(Citrobacter)、サルモネラ属(Salmonella)、シゲラ属(Shigella)、クレブシエラ属(Klebsiella)、エンテロバクター属(Enterobacter)、セラチア属(Serratia)、ハフニア属(Hafnia)、プロテウス属(Proteus)、モルガネラ属(Morganella)、プロビデンシア属(Providencia)、エルシニア属(Yersinia)、カンピロバクター属(Campylobacter)、ビブリオ属(Vibrio)、エロモナス属(Aeromonas)、シュードモナス属(Pseudomonas)、キサントモナス属(Xanthomonas)、アシネトバクター属(Acinetobacter)、フラボバクテリウム属(Flavobacterium)、ブルセラ属(Brucella)、レジオネラ属(Legionella)、ベイロネラ属(Veillonella)、バクテロイデス属(Bacteroides)およびフゾバクテリウム属(Fusobacterium)などのグラム陰性菌;ならびに、ブドウ球菌属(Staphylococcus)、レンサ球菌属(Streptococcus)、腸球菌属(Enterococcus)、コリネバクテリウム属(Corynebacterium)、バシラス属(Bacillus)、ゲオバシラス属(Geobacillus)、デスルホトマクルム属(Desulfotomaculum)、リステリア属(Listeria)、ペプトコッカス属(Peptococcus)、ペプトストレプトコッカス属(Peptostreptococcus)、クロストリジウム属(Clostridium)、ユーバクテリウム属(Eubacterium)、プロピオニバクテリウム属(Propionibacterium)、ラクトバチルス属(Lactobacillus)、ビフィドバクテリウム属(Bifidobacterium)、エンテロコッカス属(Enterococcus)、ラクトコッカス属(Lactococcus)、ペディオコッカス属(Pediococcus)、ロイコノストック属(Leuconostoc)、ストレプトコッカス属(Streptococcus)、サーモアナエロバクター属(Thermoanaerobacter)、ムーレラ属(Moorella)などのグラム陽性菌が挙げられる。測定対象としては、ブドウ球菌属、リステリア属、ラクトバチルス属、ビフィドバクテリウム属、エンテロコッカス属、ラクトコッカス属、ペディオコッカス属、ロイコノストック属、ストレプトコッカス属、ビブリオ属、サルモネラ属、エシェリキア属、カンピロバクター属、アンフィバシラス属、バシラス属、ゲオバシラス属、クロストリジウム属、デスルホトマクルム属、サーモアナエロバクター属、ムーレラ属およびスポロサルシナ属の細菌が好ましく、黄色ブドウ球菌;リステリア菌;乳酸菌;腸炎ビブリオ;サルモネラ菌;大腸菌;カンピロバクター;ならびにアンフィバシラス属、バシラス属、ゲオバシラス属、クロストリジウム属、デスルホトマクルム属、サーモアナエロバクター属、ムーレラ属およびスポロサルシナ属などの芽胞形成細菌がより好ましい。黄色ブドウ球菌Staphylococcus aureus、特にStaphylococcus aureus subsp. aureus、大腸菌Escherichia coli、およびバシラス属の芽胞形成菌であるBacillus subtilisBacillus subtilis ver. subtilisBacillus coagulansBacillus licheniformisBacillus megaterium、Geobacillus属の芽胞形成菌であるGeobacillus stearothermophillus、好熱性偏性嫌気性芽胞形成細菌であるThermoanaerobacter mathraniiMoorella thermoaceticaが最も好ましい。
【0013】
本発明の測定対象となる真菌としては、担子菌門(Basidiomycota)、子嚢菌門(Ascomycota)、ツボカビ門(Chytridiomycota)、ネオカリマスティクス菌門(Neocallimastigomycota)、コウマクノウキン門(Blastocladiomycota)、微胞子虫門(Microsporidia)、グロムス門(Glomeromycota)、ケカビ亜門(Mucoromycotina)、ハエカビ亜門(Entomophthoromycotina)、トリモチカビ亜門(Zoopagomycotina)、キックセラ亜門(Kickxellmycotina)などの真菌が挙げられる。測定対象としては担子菌門若しくは子嚢菌門に属する酵母、または、接合菌門、子嚢菌門若しくは担子菌門に属する真菌(カビ)が好ましい。酵母としては、例えば、サッカロマイセス属(Saccharomyces)、カンジダ属(Candida)、トルロプシス属(Torulopsis)、ザイゴサッカロマイセス属(Zygosaccharomyces)、スキゾサッカロマイセス属(Schizosaccharomyces)、ピチア属(Pichia)、ヤロウィア属(Yarrowia)、ハンセヌラ属(Hansenula)、クルイウェロマイセス属(Kluyeromyces)、デバリオマイセス属(Debaryomyces)、ゲオトリクム属(Geotrichum)、ウィッケルハミア属(Wickerhamia)、フェロマイセス属(Fellomyces)などの子嚢菌門に属する酵母および、スポロボロマイセス属(Sporobolomyces)などの担子菌門に属する酵母が好ましい。サッカロマイセス属の出芽酵母であるSaccharomyces cerevisiaeおよびSaccharomyces pastrianus、ならびにスキゾサッカロマイセス属の分裂酵母であるSchizosaccharomyces pombeがより好ましい。測定対象となるカビとしては、ビソクラミス属(Byssochlamys)およびタラロセミス属(Talaromyces)などの子嚢菌門に属する真菌が好ましく、Byssochlamys fulvaおよびTalaromyces flavusがより好ましい。これらの子嚢菌門の真菌は、子嚢胞子の状態であってもそのまま本発明の測定対象となる。
【0014】
本発明の測定対象となる細胞としては、単離して培養した細胞だけでなく、飲食料品中や溶液中等に混入した細胞や細胞の混合物を用いることができる。これは、本発明の測定対象となる細胞は、当該細胞の存在環境下から採取したものを直接測定に用いることができるためである。本発明では、少なくとも1つの細胞を測定できれば細胞の耐熱性の評価が可能であるため、評価したい細胞を必ずしも単離する必要はなく、当該細胞の存在する環境下での細胞の耐熱性を評価することが可能である。また、本発明の測定対象となる細胞は、当該細胞の増殖に適した培養条件下で培養してから測定に用いることもできる。各細胞の増殖に適した培養条件は、当業者であれば適宜決めることができる。細胞は、当該細胞の存在環境下から採取したものを直接測定に用いる場合も、当該細胞の増殖に適した培養条件下で培養してから測定に用いる場合も、適宜固定してから測定に用いることができる。生きた細胞を測定する固定法としては特に限定されないが、風乾固定が挙げられる。
【0015】
本発明の細胞の耐熱性評価法では細胞の形状または硬度の温度依存性を決定することにより細胞の耐熱性を評価することができる。後記実施例に示されるように、一定応力を加えられた細胞を一定の昇温速度で加熱すると温度依存的に細胞の形状が変化し、その変化割合がある温度を境に急激に変化すること、さらには、該温度が細胞の耐熱性の指標となることが見出された。従って、本発明によれば、細胞の形状(例えば、細胞の厚みや直径(桿菌の場合は、長さおよび/または幅)のような細胞形状の変化を客観的に特定できる指標)の温度依存性を決定することにより細胞の耐熱性を評価することができる。また、本発明によれば、細胞の硬度の温度依存性を決定することにより細胞の耐熱性を評価しても良く、さらにはヤング率や弾性率のような細胞の物性値の温度依存性を決定することにより細胞の耐熱性を評価しても良い。従って、本発明によれば、細胞の形状の温度依存性、あるいは、細胞の硬度、ヤング率若しくは弾性率などの細胞の物性値の温度依存性を決定することにより細胞の耐熱性を評価することができる。以下の理論に拘束されるわけではないが、細胞を昇温条件下に置いた場合、細胞の死滅前後で細胞自体の物性が変化し、その変化を捉えることにより細胞の耐熱性を評価することが可能になると考えられる。
【0016】
細胞の形状の温度依存性を決定する工程は、細胞に応力をかけた状態で測定してもよく、応力をかけずに測定してもよい。応力をかける場合は、特に限定されないが、応力をかけた方向の細胞の形状を測定することができる。一つの具体的態様では、細胞の形状は細胞の厚みである。
【0017】
細胞の形状の変化を測定する装置は、細胞の形状が測定できる限り特に制限無く用いることができるが、例えば、走査型プローブ顕微鏡(SPM)が挙げられる。また、走査型プローブ顕微鏡としては、例えば、原子間力顕微鏡(AFM)を用いることができる。走査型プローブ顕微鏡を用いた細胞の形状の測定方法は当業者に周知である。
【0018】
細胞に対する応力は、走査型プローブ顕微鏡などのカンチレバーを用いて発生させることができる。また、細胞の形状は、走査型プローブ顕微鏡などのカンチレバーを用いて測定することができる。応力の発生と細胞の形状の測定のためのカンチレバーは別々のカンチレバーとすることができるが、好ましくは、同一のカンチレバーを用いて、応力を発生させ、同時にその際の細胞の形状を測定することができる。
【0019】
細胞の硬度は弾性率あるいはヤング率(N/mまたはPa)により表すことができる。従って、細胞の硬度の温度依存性を決定する工程は、細胞の弾性率あるいはヤング率の温度依存性を決定する工程とすることができる。すなわち、細胞の弾性率あるいはヤング率を様々な温度で測定することで細胞の硬度の温度依存性を決定することができる。なお、弾性率とヤング率は変形のしにくさを表す物性値である点で共通することから、本明細書では両者を同義のものとして扱うこととする。
【0020】
ヤング率Eは、一般的に、
【数1】

として表すことができる{ここで、応力σは、単位面積当たりの力(N/mまたはPa)であり、ひずみεは、応力σによる変形の単位長さ当りの伸縮量である}。従って、上記数式に基づいて、細胞に負荷する応力σと細胞のひずみεから、細胞のヤング率Eを決定することができる。細胞のひずみεは、例えば、応力σを負荷した際の細胞の厚みを無負荷時の細胞の厚みで除して求めることができる。応力の無負荷時の細胞の厚みに温度依存性がほとんど見られないときには、細胞のひずみεに代えて、(i)応力σを負荷した際の細胞の厚み若しくは厚みの変化量、または、(ii)細胞の厚みを一定にするために要する応力σを用いて細胞のヤング率の温度依存性を決定することができる。なお、細胞のひずみεは細胞の厚みだけでなく細胞の直径(桿菌の場合は、長さおよび/または幅)などを指標にしてもよい。
【0021】
細胞の形状または硬度の温度依存性は、細胞を昇温させながらこれらを測定することにより決定することができる。細胞を昇温させる手段は特に限定されないが、例えば、細胞に接触させた試料台やカンチレバーにより昇温させることができ、あるいは加熱雰囲気下に試料を置くことでも昇温させることができる。
【0022】
昇温は、好ましくは単位時間当りの温度変化(昇温速度)を一定にして行うことができる。昇温速度に制限はないが、例えば、毎秒0.1℃〜毎秒100℃とすることができ、毎秒1℃〜毎秒50℃とすることができ、または、毎秒10〜20℃とすることができる。細胞の昇温と形状または硬度の測定とを独立した手段で行うこともできるが、好ましくは、加熱手段を備えたカンチレバーを用いて、昇温と形状または硬度の測定とを同時に行うことができる。加熱手段を備えたカンチレバーとしては、例えば、局所加熱型カンチレバーが挙げられ、好ましくは、局所加熱型カンチレバーを備えたSPMを用いることができる。なお、細胞の形状の温度依存性を測定する際には、温度変化前後の細胞の大きさの差のように細胞形状の変化を客観的に測定できれば、細胞形状そのものを測定する必要はない。
【0023】
細胞の形状または硬度の温度依存性を決定した後に、更に細胞の形状または硬度の温度依存性が特徴的に変化する温度を決定することができる。すなわち、本発明による細胞の耐熱性の評価方法は、a)細胞の形状または硬度の温度依存性を決定する工程に加えて、b)決定された形状または硬度の温度依存性から、温度依存性が特徴的に変化する温度を導出する工程をさらに含んでいてもよい。上記工程b)で求められた温度依存性が特徴的に変化する温度は、その高低を比較することによって、細胞の耐熱性の比較に用いることができる。このような温度依存性が特徴的に変化する温度は以下のように導出することができる。
【0024】
細胞の形状または硬度の温度依存性が変化する温度としては、細胞の形状(例えば、厚み)、または細胞の硬度の逆数を加熱温度に対してプロットしたグラフ上で、細胞の形状、または細胞の硬度の逆数の温度に対する傾きが急激に変化する温度(本明細書中、単に「T」(℃)ということがある)若しくは細胞の形状、または細胞の硬度の逆数が極大値をしめす温度(本明細書中、単に「T」(℃)ということがある)が該当する。上記温度T(℃)は、上記グラフから視覚的に求めてもよいし、視覚的に求めたTの前後から任意に2点を選択し、その2点を通る直線から最も距離が遠い点の温度として求めてもよい。また、このようにして求めたT値を仮のT値とし、この値より高い温度域および低い温度域においてそれぞれ1本の直線の回帰式を求め、得られた2本の回帰式の交点の温度をT値として求めてもよい。その他、周知の方法により折れ線回帰モデルを作成し、Tを求めてもよい。このような温度Tを有する細胞としては、例えば、芽胞形成細菌の芽胞が挙げられる。
【0025】
細胞の形状、または細胞の硬度の逆数が極大値をしめす加熱温度T(℃)は、例えば、細胞の形状、または細胞の硬度の逆数が最大値を示す温度として求めることができる。このようなTを有する細胞としては、例えば、芽胞形成細菌の栄養細胞、芽胞形成細菌以外の細菌および真菌を挙げることができる。これらの細胞では、温度Tの前後でもデータが高い直線性を示すので、温度Tを決定する際と同様の方法で、2本の回帰曲線または折れ線回帰モデルから、形状、または硬度の逆数が極大値を示す加熱温度T(℃)を求めてもよい。
【0026】
決定された細胞の形状または硬度の温度依存性から細胞固有の温度TまたはTを導出する工程は、上記と数学的に等価な方法によっても行うことができる。数学的に等価な方法としては、測定値を逆数にして温度TまたはTを導出する方法、測定値にある定数を乗じて(若しくはある定数を加算して)またはある定数で除して(若しくはある定数を減じて)あるいはこれらの加減乗除を組み合わせて温度TまたはTを導出する方法などを挙げることができる。具体的には、例えば、細胞の形状、または細胞の硬度の逆数が最大値(極大値)を示す温度は、細胞の形状の逆数または硬度が最小値(極小値)を示す温度を決定することでも求めることができる。
【0027】
このようにして求められたTまたはTの温度は、その高低を比較することで、それぞれの微生物の耐熱性の評価に用いることができる。具体的には、各種微生物のTまたはTを比較し、TまたはTの温度が高いほど、耐熱性が高いと評価することができる。
【0028】
本発明による細胞の耐熱性の評価方法では、加熱殺菌理論において、ある温度で微生物の生残数を10分の1とするのに必要な時間(本明細書中、単に「D値」ということがある)を求めることができ、また、あるD値を示す加熱温度を求めることもできる。すなわち、本発明による細胞の耐熱性の評価方法は、前述の工程a)および工程b)に加えて、c)温度依存性が特徴的に変化する温度、すなわち、細胞固有の温度T若しくはT、が対応するD値を決定する工程を含んでいても良く、また、工程c)に加えて、d)所望のD値を示す加熱温度または所望の加熱温度におけるD値を算出する工程を更に含んでいてもよい。さらに、工程d)で求められた所望のD値を示す加熱温度または所望の温度におけるD値からは、微生物の加熱殺菌条件を決めることができる。なお、一般的な加熱殺菌理論としては、現場必携・微生物殺菌実用データ集第1版、31〜42頁に記載の理論を挙げることができる。
【0029】
細胞固有の温度TまたはTが対応するD値を決定する工程c)は、以下のように行うことができる。具体的には、本発明の方法により決定したTまたはTに対応するD値が如何なる値をとるかは、一般的な微生物の加熱殺菌理論を用いることで、当業者であれば容易に求めることができる。
【0030】
後記実施例に示されるように、ある特定の昇温速度条件で細胞の形状または硬度の温度依存性を決定し、温度依存性が特徴的に変化する温度を決定すると、その決定された温度に対応するD値は菌種によらずほぼ一定の数値を取る。すなわち、昇温速度条件を一定にして工程a)を行い、それに引き続いて工程b)を行うと、それにより決定された温度TまたはTは菌種によらずある特定のD値に対応することになる。この知見に従えば、微生物の加熱殺菌理論に基づく一般的な方法によってある微生物(好ましくは2〜3種の微生物)について加熱温度Tと微生物の生残数を10分の1とするのに必要な時間Dの関係式を決定し、決定されたその関係式に、その微生物についてある特定の昇温速度条件で実施された工程a)および工程b)で決定された温度TまたはTを導入し、対応するD値を一旦決定すれば、その後他の微生物について決定された温度TまたはTも、同じ昇温速度条件を用いて測定する限り、同様のD値を持つと決定できる。上記のように決定されるD値は、細胞の昇温速度に依存して変化することから、工程a)における昇温速度条件を変更するときには、昇温速度条件毎にD値を決定することが好ましい。
【0031】
ある昇温速度条件下で決定された温度TまたはTとD値との関係を決定するために用いる関係式は、具体的には、微生物の加熱殺菌理論に基づく一般的な方法によって微生物の様々な温度におけるD値を取得し、それにより得られた回帰式log10D=c+d×T(cおよびdは定数)(この式は「加熱致死時間曲線」または「TDT曲線」と呼ばれる)を用いることができる。TDT曲線は測定対象の微生物が存在する環境毎に決定し、決定したTDT曲線に基づいて、温度依存性が特徴的に変化する温度、すなわち、細胞固有の温度T若しくはTに対応するD値を決定してもよい。この場合、その環境下(培養条件下)での温度T若しくはTに対応するD値と決定してもよい。
【0032】
また、本発明によれば、所望のD値を示す加熱温度または所望の加熱温度におけるD値を更に算出することができる。工程d)は、以下のように行うことができる。具体的には、一般的な加熱殺菌理論によれば、D値と温度Tは、回帰式log10D=c+d×T(cおよびdは定数)の関係を示すことが知られており、TDT曲線の回帰式は、以下の2つの方法により求めることができる:(i)あるD値を示す温度と定数dとからTDT曲線の回帰式を決定する方法、または、(ii)あるD値を示す温度と他のD値を示す温度とからTDT曲線の回帰式を決定する方法。このようにして決定された回帰式を用いることで、任意の加熱温度におけるD値や任意のD値を示す加熱温度を算出することができ、さらには、所望のD値を示す加熱温度や所望の加熱温度におけるD値を算出することができる。なお、工程c)において決定された、特定の昇温速度条件に対応するD値が所望のD値である場合には、当該昇温速度条件下で細胞を測定することにより、当該所望のD値を示す加熱温度を算出してもよい。D値と温度Tとの関係は、微生物毎に変化するため、工程d)を行うときは回帰式を微生物毎に決定することが好ましい。また、同一微生物であっても培養条件(存在環境)により変化する可能性があるため、この回帰式は培養条件(存在環境)毎に決定することが好ましい。
【0033】
上記(i)の方法を用いる場合には、以下のように回帰式を決定することができる。任意の温度におけるD値を算出する工程において、TDT曲線の回帰式log10D=c+d×T(cおよびdは定数)における定数dをd=−(1/Z)と表すと、Z値は、D値の10倍または10分の1の変化に対応する加熱温度の変化(℃)に相当する。既に知られた通常培養条件下におけるD値からZ値(または定数d)を算出することは当業者であれば可能であるから、工程c)で特定のTまたはTとそれに対応するD値が一つでも算出できれば、TDT曲線の回帰式を推定することができる。そのような既に知られた通常培養条件下におけるD値は、たとえば、TriBiox Laboratories社が提供するTKDBデータベース(例えば、ver3.0)から取得することができる。細胞の培養環境が変化することで、D値およびZ値が変動する可能性があることから、測定したい微生物の存在環境にできるだけ近い環境下で得られたデータを用いることが好ましい。また、Z値を適宜補正して、微生物の存在環境下におけるZ値を推定し、TDT曲線の回帰式の導出に用いてもよい。
【0034】
上記(ii)の方法を用いる場合は、以下のように回帰式を決定することができる。任意の温度におけるD値を算出する工程において、TDT曲線の回帰式log10D=c+d×T(cおよびdは定数)は、上記(ii)に記載されるように、あるD値を示す温度と他のD値を示す温度とから決定することができる。具体的には、異なる2以上の昇温条件で得られる細胞固有の温度TまたはTとそれに対応するD値とからTDT曲線の回帰式を求めることができる。この際、2つ以上のD値のうちの1つ以上をTKDBデータベースのD値で代用することもできる。上記(ii)の方法は、微生物の存在環境(培養環境)下におけるTDT曲線の回帰式を正確に求められる点で有利である。
【0035】
本発明の方法により得られた任意の温度におけるD値を用いて、現実の加熱殺菌の条件を定めることができる。例えば、加熱時間を5Dまたは12Dとすることで、生残微生物数をそれぞれ10または1012のオーダーで減少させることができる。例えば、G. stearothermophilusB. stearothermophilus)およびC. sporogenes芽胞では、加熱殺菌時間を5Dとすることができる。また、命に関わる危険なボツリヌス菌芽胞では、加熱殺菌時間を12Dとすることができる。また、無菌充填法で製造されるロングライフ牛乳(LL牛乳)やPETボトル清涼飲料では、加熱殺菌時間を6Dとすることができる。このような加熱殺菌時間は、殺菌対象となる細菌の毒性や殺菌する飲食品等の保存性を考慮して、当業者によって適宜設定することができる。
【実施例】
【0036】
以下、実施例に基づいて本発明を具体的に説明するが、本発明はこれらの例に限定されるものではない。
【0037】
実施例1:加熱機能を有する走査プローブ型顕微鏡(SPM)の構築
本願の実施例では局所加熱機能を有するSPMとして、カンチレバーを局所加熱型カンチレバー(日本サーマル・コンサルティング社製)に交換したナノサーチ顕微鏡SFT−3500(島津製作所社製)を用いた。このカンチレバーは、試料表面に数十N〜100Nの任意の一定の力を加えながら、少なくとも毎秒20℃で、200℃または400℃まで細胞を昇温させるために十分な昇温能力を有していた。以下の実施例では、カンチレバーにより、細胞表面の中央部に数十N〜約100Nの負荷をかけながら、毎秒20℃の昇温速度で室温(25℃)から200℃まで(好熱性偏性嫌気性芽胞形成細菌の場合は400℃まで)細胞を昇温させ、その際の細胞の厚みの変化(nm)を測定した。細胞の厚みまたは細胞の厚みの変化は、SPM付属の取扱説明書などを参照して当業者に周知の方法により算出することができる。
【0038】
実施例2:供試微生物株試料の調製
2−1.供試微生物株
供試微生物株として、Bacillus属の芽胞形成細菌(芽胞および栄養相)、好熱性偏性嫌気性芽胞形成細菌、細菌、カビ、酵母などの幅広い生物種を用いた。具体的には、Bacillus属の芽胞形成細菌としてGeobacillus stearothermophillus NBRC13737株、Bacillus coagulans DSM1株、Bacillus subtilis NBRC13719T株、Bacillus licheniformis NBRC12200株およびBacillus megaterium NBRC15308T株を用い、好熱性偏性嫌気性芽胞形成細菌としては、Thermoanaerobacter mathranii DSM11426株およびMoorella thermoacetica DSM521T株を用い、細菌としては、Staphylococcus aureus subsp. aureus NBRC100910株、Escherichia coli NBRC3301株およびBacillus subtilis NBRC13719T株の栄養相の細胞を用い、カビの子嚢胞子としては、Byssochlamys fulva DSM1808株およびTalaromyces flavus DSM63536株の子嚢胞子を用い、酵母としては、Saccharomyces pastorianus RIB2010株を用いた。
【0039】
2−2.培養条件
酵母Saccharomyces pastorianus RIB2010株は、YM培地(Difco社製、製品番号:271120)を用いて25℃で48時間培養した。好熱性偏性嫌気性芽胞形成細菌は、変法TGC培地(日水製薬社製、製品番号:302056293)を用いて55℃で72時間〜96時間培養した。その他の供試微生物株は、肉汁培地(Difco社製、製品番号:234000)を用いて35℃で24時間培養した。好熱性偏性嫌気性芽胞形成細菌に関しては、嫌気ガス発生試薬アネロパック(登録商標)・嫌気培養用ガス発生剤(三菱ガス化学社製)を用いて嫌気培養を行った。
【0040】
2−3.測定用試料の調製
その後、酵母および細菌の測定用試料は、遠心分離(5,000rpm)により菌体を回収し、純水で2回洗浄を行うことにより、調製した。芽胞の測定用試料は、近藤雅臣、渡部一仁編「スポア実験マニュアル」技報堂出版(1995)の19〜30頁に記載された方法により調製した。具体的には、50mLの肉汁培地で芽胞形成細菌を35℃で48時間培養して増殖させた後、遠心分離(5,000rpm)で回収した菌体に、100μg/mLのリゾチーム(和光純薬)を溶解した200μLの10mMトリス塩酸緩衝溶液(pH7.6)を加えた。さらに35℃にて30分間培養し、再び菌体を遠心分離(5,000rpm)で回収し、500mM塩化ナトリウムを溶解した1mLの10mMトリス塩酸緩衝溶液(pH7.6)を加えて洗浄し、遠心分離(10,000rpm)で菌体を回収した。その後、さらに菌体を10mLの純水で洗浄し、遠心分離(10,000rpm)で菌体を回収する工程を2回繰り返した。得られた菌体を芽胞の測定試料(芽胞試料)とした。カビの子嚢胞子の測定用試料は、高島浩介、かび検査マニュアルカラー図譜、(株)テクノシステム(2002)の130〜131頁に記載された方法により調製した。具体的には、ポテトデキストロース培地(日水製薬社製、製品番号:302057092)を用いて、カビを25℃で1ヶ月間培養し、光学顕微鏡下で子嚢胞子の形成が確認できたものをカビの子嚢胞子の測定用試料(子嚢胞子試料)とした。
【0041】
このようにして調製した細胞または芽胞懸濁液の試料をスライドグラス上に滴下し、風乾固定した。風乾固定後の試料は、直ちに測定に用いた。風乾固定後の細胞は生きた状態であると考えられる。
【0042】
実施例3:熱分析による測定用試料細胞の厚みの増加量(nm)の測定
スライドグラス上で風乾固定した測定試料細胞の中心表面に、SPMの局所加熱型カンチレバーを接触させ、細胞の厚み方向に一定の力(約数十N〜100N)を加え続けた。その状態で、カンチレバーの先端温度を一定速度(毎秒20℃)で200℃まで(好熱性偏性嫌気性芽胞形成細菌の場合は400℃まで)昇温させながら、細胞の厚みの増加量(nm)をモニターした。
【0043】
供試微生物株における代表的な細胞の厚みの増加量(nm)と加熱温度(℃)との関係は、図1に示される通りであった。
【0044】
供試微生物株から調製した試料のうち、芽胞試料(B. licheniformisおよびB. coagulans)における細胞の厚み(nm)と加熱温度(℃)との関係を図1Aに示す。これらの芽胞試料では、加熱温度の上昇に伴い細胞の厚みの増加量(nm)が単調増加を示す傾向にあった(図1A)。いずれの芽胞試料においても、加熱温度に対する細胞の厚みの増加量(nm)のグラフの傾きが急激に低下する温度T(℃)が存在することが分かった(図1A下向き矢印)。
【0045】
供試微生物株から調製した試料のうち、好熱性偏性嫌気性芽胞形成細菌の芽胞の試料(T. mathraniiおよびM. thermoacetica)における細胞の厚みの増加量(nm)と加熱温度(℃)との関係を図1Bに示す。これらの芽胞試料では、加熱温度の上昇に伴い細胞の厚みの増加量(nm)が単調増加を示す傾向にあった(図1B)。いずれの芽胞試料においても、加熱温度に対する細胞の厚みの増加量(nm)のグラフの傾きが急激に低下する温度T(℃)が存在することが分かった(図1B下向き矢印)。
【0046】
供試微生物株から調整した試料のうち、細菌の試料(E. coliS. pastrianusおよびS. aureus subsp. aureus)における細胞の厚みの増加量(nm)と加熱温度(℃)との関係を図1Cに示す。図1Cでは、いずれの細菌試料においても加熱温度に対する細胞の厚みの増加量(nm)のグラフが山なりの形状を示す傾向が見られ、細胞の厚みの増加量(nm)が極大値(最大値)をとる温度T(℃)が存在することが分かった(図1C下向き矢印)。
【0047】
試供微生物株から調製した試料のうち、カビの子嚢胞子試料(T. flavusおよびB. fulva)における細胞の厚みの増加量(nm)と加熱温度(℃)との関係を図1Dに示す。カビの子嚢胞子試料では、加熱温度に対する細胞の厚みの増加量(nm)のグラフが山なりの形状を示す傾向が見られ、細胞の厚みの増加量(nm)が極大値(最大値)をとる温度T(℃)が存在することが分かった(図1D下向き矢印)。
【0048】
すなわち、細胞の厚みの増加量(nm)と加熱温度(℃)との関係は、温度TまたはTを境に大きく変化する。このような温度TまたはTでは、細胞の物性は大きく変化すると考えられる。
【0049】
実施例4:細胞の厚みの増加量(nm)と細胞の死滅との関係
温度TまたはTの前後では、このような細胞の物性の変化に伴って、細胞の生理的な状態も大きく変化したものと考えられる。温度TまたはTと細胞の死滅との関係を検討するために、一般的な加熱殺菌の理論(例えば、現場必携・微生物殺菌実用データ集第1版、31〜42頁に記載の理論)に従って、加熱殺菌の理論におけるD値と温度TまたはTとの関係を調べた。
【0050】
まず、D値と加熱温度Tとの関係を調べるために、一般的な手法によりB. licheniformis株およびB. coagulans株の芽胞試料におけるD値を測定し、加熱温度との関係をグラフ上にプロット(●:B. licheniformis株、▲:B. coagulans株)した(図2)。各微生物株におけるTDT曲線(図2の実線)の回帰式から加熱温度Tで加熱した際のD値の推定値を求めたところ、どちらの芽胞試料においても推定値は0.005分であることが分かった(図2の点線)。すなわち、上記2種の芽胞試料においては、細胞の厚みの増加量(nm)の熱分析により求められたTと、D値が0.005分となる温度T(D=0.005)とがほぼ一致することが分かった。
【0051】
同様の方法により、すべての供試微生物株においてTまたはTを測定し、TDT曲線の回帰式から求めたT(D=0.005)と比較した。結果は表1に示される通りであった。
【0052】
【表1】

【0053】
表1は、各供試微生物株における、細胞の形状の温度依存性から求めたTまたはTの実測値(℃)と従来法で調べたD値およびZ値から算出したT(D=0.005)の理論値(℃)とを比較するための表である。
【0054】
表1で示されるように、カビ、細菌、酵母に関わらず、いずれの供試微生物株においてもTおよびTの温度を測定することができた。また、温度TおよびTは、微生物種毎に大きく異なっていた。さらに、温度TおよびTとT(D=0.005)とを比較したところ、いずれの供試微生物株においても、温度TおよびTとT(D=0.005)とがほぼ一致した。このように、温度TおよびTとT(D=0.005)との一致は、「界」を超えた広範な微生物種(カビ(真菌)、細菌、酵母)において共通した現象であることから、細胞の厚みの増加量(nm)の熱分析は、広範な微生物種を対象とした簡便かつ迅速な耐熱性の評価の有用なツールになりうる。特に、幅広い微生物種において、細胞の厚みの増加量(nm)の熱分析によりTまたはTを決定することで、D値が0.005分となる温度T(D=0.005)を予測することが可能であった。このことから、温度TおよびTの大小は、その微生物の耐熱性を評価する上で重要な判断基準となり、例えば、温度TおよびTが高いほど、微生物の耐熱性が高いと評価できることが示された。今回の実施例では一例として一定応力負荷時の細胞の厚みの変化をモニターしているが、仮に、細胞の硬度、ヤング率または細胞の直径、長さ、若しくは幅、またはそれらの変化をモニターしたとしても、同様の結果が得られると考えられる。
【0055】
実施例5:熱分析において算出されるD値の特性
温度TおよびTとD値との関係を更に詳細に調べるために、カンチレバーの昇温速度を変化させて、温度TまたはT(℃)を決定し、D値との関係を調べた。まず、昇温速度を変化させても、温度上昇と細胞の厚みの増加量(nm)との関係から、TまたはT(℃)を求められることを確認した(図3)。次に、TDT曲線の回帰式から求められた温度TまたはTに対応するD値を算出したところD値は0.01(分)であることが分かった(図2)。
【0056】
【表2】

【0057】
表2は、細胞の形状の温度依存性から求めたTまたはTの実測値(℃)と従来法により算出したT(D=0.005)およびT(D=0.01)の理論値(℃)とを比較するための表である。
【0058】
表2により、確かに細胞の熱分析時の昇温速度を変化させることで、異なるD値を示す温度を算出することが可能であることが分かった。
【0059】
微生物の加熱理論によれば、微生物は一定温度で加熱すると細胞数が10分の1となる加熱時間D値を有し、D値は微生物の耐熱性の指標とされている。一般的に、加熱時間を短くして同等の加熱殺菌効果を得るためには、加熱温度を高める必要があり、逆に、加熱温度を低くして同等の加熱殺菌効果を得るためには、加熱時間を長くする必要がある。すなわち、同等の加熱殺菌効果を得るための加熱時間と加熱時間とは一方を増やせば他方が減る関係にある。この点を考慮した上で、本実施例におけるこの熱分析結果を検討してみると、昇温速度を速めるほど、より短い加熱時間で温度T(ここでTは任意の温度)に到達するので、同等の加熱殺菌効果を得るためには、結果としてより長時間の加熱が必要となり、昇温速度の速い測定環境下では、温度TまたはT(℃)が上昇すると考えられる。また、一般的に、TまたはT(℃)が上昇するとD値は低下することとなる。これが、昇温速度を速めると温度TまたはT(℃)が上昇し、D値が低下する理由であると考えられる。同様に、昇温速度を遅くするほど、より長い時間をかけなければ温度Tに到達さないので、より低い温度で(温度Tに達する前に)同等の加熱殺菌効果を得ることとなり、昇温速度の遅い測定環境下では、温度TまたはT(℃)が低下する。また、一般的に、TまたはT(℃)が低下するとD値は上昇することとなる。これが、昇温速度を遅くすると温度TまたはT(℃)が低下し、D値が上昇する理由であると考えられる。このように、熱分析時の昇温速度条件によって異なるD値を示す加熱温度を導出できるとの結果は、一般的な加熱殺菌理論によれば合理的に解釈することができる。
【図1−1】

【図1−2】


【特許請求の範囲】
【請求項1】
細胞の形状または硬度の温度依存性を決定する工程を含んでなる、細胞の耐熱性評価法。
【請求項2】
加熱手段を備えた走査型プローブ型顕微鏡(SPM)を用いて、細胞の形状または硬度の温度依存性を決定する、請求項1に記載の方法。
【請求項3】
細胞が、細菌、真菌および酵母からなる群から選択される微生物である、請求項1または2に記載の方法。
【請求項4】
所望のD値を示す前記細胞の加熱温度を算出する工程を更に含んでなる、請求項1〜3のいずれか一項に記載の方法。
【請求項5】
所望の加熱温度における前記細胞のD値を算出する工程を更に含んでなる、請求項1〜3のいずれか一項に記載の方法。
【請求項6】
細胞が存在する環境下における前記細胞の耐熱性を評価する、請求項1〜5のいずれか一項に記載の方法。

【図2】
image rotate

【図3】
image rotate


【公開番号】特開2013−78297(P2013−78297A)
【公開日】平成25年5月2日(2013.5.2)
【国際特許分類】
【出願番号】特願2011−221306(P2011−221306)
【出願日】平成23年10月5日(2011.10.5)
【出願人】(391058381)キリンビバレッジ株式会社 (94)
【出願人】(000001993)株式会社島津製作所 (3,708)
【Fターム(参考)】